アラウンド・サブ4!!

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「一乗谷朝倉氏遺跡」 滅びの美学

何度も来たくなるところ

 福井市城戸ノ内町にある「一乗谷朝倉氏遺跡」を見てきました。二回目になります。

 

 戦国大名・朝倉氏の城下町と山城からなる遺跡であり、町並みのほとんどが発掘・保全されており、朝倉邸の唐門や武家屋敷、商人家屋などが一部復元されています。

 

 おかげで、戦国時代の城下町を体感・想像しながら楽しく歩き回ることができます。

 

 今回は城下町に加え、一乗谷城(山城)にも足を運びました。ちょっとしたトレイルランも楽しめました。実際、トレイルランの大会も開催されていますね

 

・朝倉トレイルラン2019~戦国歴史街道を行く~“日本遺産認定記念”

・2019年9月15日(日)開催

参加費が5500円(24kmコース)で参加賞にタオルやお買い物券などがもらえ、エイドも非常に充実しているらしいのでエントリー予定してます。

 

このように楽しめる要素がたくさんあるので、何度も足を運んでみたくなります。

 

朝倉邸の唐門です。

 

 

広大な朝倉邸の敷地です。17の家屋からできているそうです。

 

朝倉義景がけっこう好きです

私は朝倉氏のなかでも、越前朝倉氏第11代(最後)の当主朝倉義景に惹かれますね。ヘタレで引きこもり、と歴史好きの方には酷評されることがおおいですが。

 

戦国武将としての朝倉義景の略歴です。

ヘタレエピソード 1

永禄13年(1570年)義景は織田信長徳川家康の連合軍に攻められることになり、義景は後詰のために浅水(現在の福井市)まで出兵したが、居城の一乗谷で騒動が起こったとして引き返した。

※ 戦いよりも、おうちの平和を愛する人物であったと思います。

 

ヘタレエピソード 2

浅井長政が信長を裏切って織田軍の背後を襲ったため、信長は京都に撤退した。このとき、朝倉軍は織田軍を追撃したが、織田軍の殿を率いた木下秀吉に迎撃され、信長をはじめとする有力武将を取り逃がした(『革島文書』『信長公記』)。このため、信長に再挙の機会を与えることになった

※ 木下秀吉(豊臣秀吉)の、殿(しんがり)の戦上手は有名なので、義景を戦下手と評するのは酷だとも思う。

 

ヘタレエピソード 3 

 比叡山に立て籠もって織田軍と対峙する(志賀の陣)。このとき信長は比叡山に自らに味方するよう求めたが無視された。

強力な比叡山が動かず、織田軍を討つ絶好のチャンスであったが・・・

 

※ あまり詳しく知らないのですが、この事実だけを見るとねえ。

 たしかこのへんで、やっと授かった男の子が急死したりして落ち込んでいたことも影響していると思います。

 

ヘタレエピソード 4  

元亀3年(1572年)7月、信長は小谷城を包囲し、虎御前山・八相山・宮部の各砦を整備しはじめた。義景は支援に赴いた。しかし義景は攻勢には出ず。9月には砦が完成。信長は再び日時を決めての決戦を申し入れてきたが、義景はまた無視した。9月16日、信長は砦に木下秀吉を残し、横山城へと兵を引いた。

 

※ 争いごとは最小限になさる方だったのでしょう。

 

10月、甲斐国武田信玄西上作戦を開始し、遠江三河方面へ侵攻し、徳川軍は次々と城を奪われた。この出兵の際、信玄は義景に対して協力を求めている。これを受けて信長が岐阜に撤退すると、義景は浅井勢と共同で打って出たが、虎御前山砦の羽柴隊に敗退。12月3日には部下の疲労と積雪を理由に越前へと撤退してしまい、そのため信玄から激しい非難を込めた文章を送りつけられる

 

※ あまりのヘタレに武田信玄も大激怒! ここまでくると、あっぱれですね。 部下と民思いの温かいお方だったのですね。無理をしない元祖ゆとり世代ともいえそうです。

 

 

元亀4年(1573年)2月16日、信玄は顕如に対して義景の撤兵に対する恨み言を述べながらも再度の出兵を求め、顕如もまた義景の出兵を求めている。3月に義昭が正式に信長と絶縁すると、義景の上洛の噂もあったというが、義景は動かなかった[31]。

4月12日、朝倉家にとって同盟者であった武田信玄は陣中で病死し、武田軍は甲斐に引き揚げた。このため、信長は織田軍の主力を朝倉家に向けることが可能になった

 

※ いよいよやばくなってきました。

 

 

 

天正元年(1573年)8月8日、信長は3万の軍を率いて近江に侵攻する。これに対して義景も軍を率いて出陣しようとするが、数々の失態を犯し重ねてきた義景はすでに家臣の信頼を失いつつあり、「疲労で出陣できない」として朝倉家の重臣である朝倉景鏡、魚住景固らが義景の出陣命令を拒否する。 このため、義景は山崎吉家、河井宗清らを招集し、2万の軍勢を率いて出陣した。

8月12日、信長は暴風雨を利用して自ら朝倉方の砦である大嶽砦を攻める。信長の奇襲により、朝倉軍は敗退して砦から追われてしまう。8月13日には丁野山砦が陥落し、義景は長政と連携を取り合うことが不可能になった。このため、義景は越前への撤兵を決断する。ところが信長は義景の撤退を予測していたため、朝倉軍は信長自らが率いる織田軍の追撃を受けることになる。この田部山の戦いで朝倉軍は敗退し、柳瀬に逃走した。

信長の追撃は厳しく、朝倉軍は撤退途中の刀根坂において織田軍に追いつかれ、壊滅的な被害を受けてしまう。

義景は逃走して一乗谷を目指したが、この間にも将兵の逃亡が相次ぎ、残ったのは鳥居景近や高橋景業ら10人程度の側近のみとなってしまう。8月15日、義景は一乗谷に帰還した。ところが朝倉軍の壊滅を知って、一乗谷の留守を守っていた将兵の大半は逃走してしまっていた。義景が出陣命令を出しても、朝倉景鏡以外は出陣してさえ来なかった。

 

 

一方、8月18日に信長率いる織田軍は柴田勝家を先鋒として一乗谷に攻め込み、居館や神社仏閣などを放火した。この放火は三日三晩続いたのである。

 

※ ここで容赦なくきれいさっぱりやきはらったことで、貴重な遺跡となりえたといえます。

 

最期

一乗谷にある墓所
従兄弟の朝倉景鏡の勧めで賢松寺に逃れていた義景であったが、8月20日早朝、その景鏡が織田信長と通じて裏切り、賢松寺を200騎で襲撃する。ここに至って義景は自刃を遂げた。

 

そして辞世の句

七転八倒 四十年中 無他無自 四大本空

※ いろいろあった40年だったが、結局意味の無い空虚なことだったなあ。という感じでしょうか。カッコをつけない素直な句です。 四十と始終(しじゅう)を掛け合わせたのでしょうか?

とはいいつつ、まあいいかといった感じがでている気がします。

 

 

 

堀はきれいに復元されています。 三方を山に囲まれ、川に守られた美しい城下町。京の都からもたくさんの公家などが移住し文化的にも洗練されていたという。重臣や民に慕われる自分のお城にずっと居たいという気持ちはわかりますね。そりゃあ、戦とかかったるいわ、となるでしょうね。

 

ここが一番景色が良かったです。

山城への登山道は3つあり、上から蛇谷コース(所要時間45分)、馬出しコース(同1時間)、下城戸コース(1時間10分)となっています。

 

蛇谷コースは現在、土砂崩れの箇所があり通行できないようです。

今回は、馬出しコースから登り、下城戸コースで降りました。下城戸コースは傾斜がなだらかで、下りをランで楽しめる部分が多かったです。

 

 

復元地区にチラシがあり、宝探しのイベントの告知がありました。このチラシを見せるとガイド用のタブレットが200円で借りれました。遺跡の説明文や動画が見られ面白かったです。GPS内蔵で、その場所にある建物のガイドや復元想像図を表示してくれて面白かったです。復元地区と朝倉邸、4つの庭園などで活用できます。

知識を深めながらの散策はとてもたのしかったです。

 

「何も無い」といえば何も無いです。知識と想像力を必要とする大人の社会見学と遠足です。

 

またどこかへ出かけたいです。

 

山城なら福井の国吉城、滋賀県小谷城が歴史上からもトレイル的にも魅力的に感じます。